コラム特集
「2019年スリランカ20周年の旅⑱」
ハルさんこと福島晴之氏のコラム『One Earth』今回は2004年に起きた津波の話。
スリランカに初のサーフショップ『A Frame Surf Shop』を親友のマンボーと始め、結婚を経て数年。
ふとした油断により負った大怪我をきっかけに帰国した翌年の2004年に起きたスマトラ沖の大地震からの津波...。
日本人である私達が「東日本大震災」で経験したあの悲劇と助け合い精神がスリランカでもあったそうです。
その後のスリランカ
この数ヶ月、新型コロナウィルスの影響で今まで好調だったスリランカのツーリズムもかつてないほどの打撃を受けた。
先日、エッラという町でコロナの影響によって飛行機が飛ばなくなり、自国に帰れなくなった14人のヨーロッパのツーリストがお金も尽きて困っているところを地元の人々が無償で食事や宿をサポートしたというニュースを見た。
スリランカは決して裕福な国ではないが、困っている人をだまって見過ごさないという国民性。
僕はこのニュースを見たときにあの津波の時のことを思い出した...。
僕が日本に帰国した翌年の2004年、スマトラ沖で大地震が起きた。
地震の起こらないスリランカの人々にとっては地震や津波などは縁遠い。
ローカル達の話を聞くと潮が信じられないほど急に引き出し、普段は水の下にあるリーフがむき出しになったので面白くなって沖に向かって歩き出した人もいたそうだ。
その後に大きな水の塊が襲ってきたそうだ。
ヒッカドゥワを挟んで車で30分北にあるアンバランゴダや、南にあるゴールではとんでもないほど多くの死者が出た。
アンバランゴダでは通りかかった列車を津波が襲い、世界有数の大きなバスターミナルのあるゴールでも巨大津波にバス停にいた大勢の人達が水に飲まれてしまった...。
一方、中間の町のヒッカドゥワでは、駅周辺では被害が出たが、サーフエリアはリーフの影響か被害が少なかったそうだ。
サーファー仲間達に死者は出なかったが、ビーチに物売りに来ていたおばさんの子供が亡くなったと聞いた。
基本的に鬱陶しいと思われている物売りの人たちの中にも真面目な人も沢山いる。
僕はマンボーに紹介されてこのおばさんの作品を『A Frame Surf Shop』で売っていた。
おばさんの息子はカメラマンで、ご主人と娘は筆でスリランカの風景を描く画家。
アーティスト3人の絵や絵葉書をビーチで売るのがこのおばさんの仕事だった。
暑い中、細い体で悪い脚を引きずりながら頑張っている姿を見て僕は気の毒に思った。
僕の父はカメラ好きで沢山カメラを持っているので、日本に帰る度に使わなくなったカメラを貰うとそのおばさんの息子さんへプレゼントしていた。
サーフィン、波、スリランカの風景のイラストの絵葉書を描いてもらい、それを店で販売するようになった。
微々たる協力だが、束で絵葉書を仕入れるとおばさんの大きい目は更にに大きくなってとても喜んでくれた。
売れ残った絵葉書で日本の仲間に暑中見舞いを送ると皆にとても喜んでもらえた。
そのおばさんの息子が津波で亡くなったと聞いた。
おばさんの大きな目から涙が溢れる顔を思うと辛かった...。
いろいろな思いが募り、津波から1か月後。
日本の仲間達が募ってくれたお金や物資を持って僕は妻と一緒にスリランカへ向かった。
ビーチ沿いに走っている国道のゴールロードにはあちらこちらで船が打ち上げられ、レンガを積み重ねられただけの家々の壁は木っ端微塵に砕け散っていた。
ビーチに建つ『A Frame Surf Shop』は頑丈に作られていたので建物は問題なかったが、家具もサーフボードも商材は全て海へと流されていた。
ローカルに聞いたら店の天井近くまで水が来ていたそうだ...。
日本の夏の時期がサーフィンのオンシーズンとなる島の反対側にあるアルガンベイは更に大きな被害を出していた。
ビーチにあった建物は無くなり、大きな水たまりになっていた。
そこでヒッカドゥワのローカル達が食料などの供給を中心に昼夜問わず長期間救援に行っていたそうだ。
震災の時の日本人もそうだったようにスリランカ人たちの助け合い精神もまた素晴らしい。
決して経済的に豊かな国ではないが、冒頭で書いたように困っている人を見た時になりふり構わず助ける精神を持っている人達を立派だと思う。
この時の旅であのおばさんには会うことができなかったが、その時その時をどう生きるかということ、物事をなんでも金儲けに結びつけない生き方をつくづく考えさせられた。
続く。
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